小関アスリートバランス研究所

Kab Labo

バランスの力

心と体のバランスを保つ
(ほぼ)日刊語録


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身体のモノ化|2010年6月17日

●身体のモノ化

スポーツだけではなく、人の動き(運動)を見ていると
自分も含めて身体パーツをモノ化してしまっているように
感じてしまう。

腕を出す。
腕を挙げる。
足で蹴る。
頭を使う。・・・etc

普通にしているとき、なにも考えていないとき、
腕の存在、脚の存在、頭の存在、体幹の存在を
感じるだろうか。

きっと空気のような存在であり、ほとんど感じないはずである。

しかしちょっと特別なこと感じ(やり)始めると
その存在がバッと飛び出してくる。

重いものを持つ時、
腰の存在、腕の存在、肩の存在が現れる。

野球のバットを持った瞬間
脚、腰の存在、腕の存在が現れる。

ボクシングをはじめれば
肩の存在、手の存在が現れる。

これらは実は身体のモノ化した結果である。

腕という道具。脚という道具。腰という道具。心という道具。

そういう感覚が強くなるほど
バランスが崩れるのだ。

最近高齢者に座った状態から立ち上がるときに
しっかり腕を使うのではなく、
指先だけを着いて立ってください(添える感じ)。
と言っている。
驚くほど立つのが楽になる。

これもひとつ腕をモノ化しているところを
修正した結果である。

普通にしたとき、何も考えていないときの
身体はどうだろうか。
どの存在も決して強すぎず、弱すぎず、
全体の調和(本来の姿)がある。

その時、
手を動かすのではなく、手が動くのだ。
脚は上げるのではなく、脚が上がるのだ。
踏ん張るのではなく、踏ん張れるのだ。
身体を早く動かすのではなく、早く動くことができるのだ。

これらは特別なことではない。
私たちはシンプルなとき、もともとそうなっているだから。

自然の動物たちはそうやって
動いているのではないだろうか。

早く動こうとはしていない。だから早いのだ。
強くしようとはしていない。だから強いのだ。

必要なとき、必要なだけ、必要に動く。
ただそれだけなのではないだろうか。
それがシンプルであり続けるために
必要なことである。

これは考えるというところか少し離れてみると
見えてくるものである。

是非お試しいただきたい。
                      kab labo.小関