小関アスリートバランス研究所

Kab Labo

バランスの力

心と体のバランスを保つ
(ほぼ)日刊語録


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言っていることを|2010年12月24日

その人の言っていることを評価しながら見ると、

その人の言っていることではなく、

自身の考えしか見えてこない。

だから、私とあなたの構図にしかならない。

私が正しいのかあなたが間違っているのか。

どちらが勝つか負けるか。

競争、強制、闘争、衝突、喧嘩、抵抗、自己満足、怒り…である。

 

その人の言わんとしていることを見てみると、

その人の言っていること以上の本質が見えてくる。

こそには私とあなたの境は消えていく。

私とあなたは肩を並べ合い同じ方向を見て

同じものを共有できる。

さらに次の想像や可能性を見出せるだろう。

それは融合、協調、調和、バランス、成長、楽しさ…。である。

 

                              kab labo.小関

 

 

 

心地よさ|2010年11月22日

表裏のある心地よさか。

心地よさそのものか。

 

心地よさは誰でも求めたいものであるが、

それが表裏のあるもか、そうでないかは、

大きな違いがある。

 

表裏の心地よさは常に不安や恐怖というものと

一対になっている。

 

だからどれだけ心地よさを獲得しても

常にそれが付きまとう。

 

例えば、

100万円持っているという安心感が

使えばそれが失われるという不安感となる。

 

人を支配した人は、

同時に支配できないことを恐怖に感じたりする。

 

勝つことで得る強さという地位や賞賛。

次にそれに答えられるかどうかというプレッシャー。

 

なとど言えば分かりやすいだろうか。

 

結果に対するアプローチを間違うと

どこまで行っても

これらは表裏セットとなってしまう。

 

逆に

後者の「心地よさそのもの」は、

まったく違うアプローチで結果を見ることができる。

 

まぁ、考えて知りえるものではないことは確かである。

 なぜなら、身体感覚によってしか知ることが出来ないからである。

 

それが感性を育み、人との調和、協調を高め、

偏りを少なくしていき、

個々この主体(能力)を開花させる。

 

表裏のある心地よさが悪いというわけではない。

ただ、心地よさそのものがあることを知ることで

バランスを保ってくれるような気がするのは

私だけではないように思う。

                       kab labo.小関

難しい技は|2010年10月28日

難しい技は難しい感覚ではない。

難しい技ほどシンプルな感覚が大切になる。

外身と中身は必ずしも一致するものではない。

大道芸人、サーカスの人たちは

難しい技を難しく見せているが、

それは簡単にやっているからできることである。

もちろん、一般の人がすぐ出来ることではないが、

彼等にとってはそうなのだ。

 

アスリートたちも同じ。

出来ない人から見れば難しい動きをするかもしれないが、

本人たちは私たちが思うより

実は、簡単にやっているのだ(当の本人たちも同じ問題にぶつかっていたりするが)。

この簡単にシンプルにやる。

その感覚に解決の道がある。

 

                  kab labo.小関

運やツキ|2010年10月20日

運やツキは未来にあるのではなく、

過去に見えるものである。

 

運やツキといったものは、

すべて結果的な辻褄合わせしたもの。

都合良くフォーカスした出来事ではないだろうか。

 

そしてその正体はなんでもない日常であり、

むしろ面倒臭いと思うことだったりする。

 

スポーツでも仕事でも人間関係でも何でも良いが、

結果を出すのは特別なことや特殊なこををしたからではない。

当たり前を新鮮にこなすことにある。
 

                    kab labo.小関

心の制限|2010年10月15日

人はあらゆる制限の中で生きている。

 

体の大きさ、知識、哲学、家庭、仲間、組織、社会・・・

もし、希望通り環境が変わってもすぐにまた違う制限が生まれる。

 

環境の制限はあるのは当然なのだ。

 

だからといって、
心まで同じように制限する必要ないだろう。

 

環境の制限が窮屈さを生むのではなく、心の制限が窮屈さを生むのだ。

 

運動においても同じ。

 

心が制限されているのか自由なのか見極めてみると良いだろう。

      

                              kab labo.小関

強味と弱味|2010年10月 2日

強味は弱味になり、

弱味は強味になる。

 

強味を持つことは良いことだが、

頼れば頼るほどそれは弱味になる。

 

自分の弱味を知っている人ほど

強味に頼らず、弱味を見方にする。

 

つまり弱味が強味なってくる。

 

そして強味に頼らないからこそ

余裕を持ち続けることができる。

 

弱味は別に悲観するものではない。

何故なら、強味も弱味も分けることができない

一つの「私」なのだから。

 

             kab labo.小関

感覚と通行人|2010年10月 2日

感覚とは町で歩く通行人のよう。

赤い服の人、怖い人、好みの人、楽しそうな人、悲しそうな人、

様々な人たちとすれ違う。

知り合いの人と会えば、「お、久しぶり!」なんて話し込んだりする。

しかしその時も、他の通行人たちは変わらずに私の前を行き来するが、

私の意識にはその人たちの存在は突然薄くなってしまう。

 

運動の感覚も同じように

様々な感覚とすれ違い、見たり、感じたり、触れたりすることもある。

しかし一つの感覚ばかり見ていればやはり他のことは目に入らなくなるし

感じられなくなる。

 

「久しぶり!」「こんにちは!」と挨拶しながらも

また新しい人たちと触れ合ってみることが

新しい出会いや発見を生んだりする。

 

そんな気分で感覚を味わってみてはいかがだろうか。

 

                     kab labo.小関

見るバランスと感じるバランス|2010年8月28日

●見るバランスと感じるバランス

良いバランスからは強さを見てとれる。
良いバランスからは中心を見てとれる。
良いバランスからは軸を見てとれる。

良いバランスは強さを感じない。
良いバランスは中心を感じない。
良いバランスは軸を感じない。

見る側と感じる側。

この違いを知っているのと知らないのとでは
天国か地獄の差がある。

             kab labo. 小関

賛否一体|2010年8月23日

●賛否 物事の賛否は ひとつの情報であり、 本当は分けることはできない。

賛の中の否、
否の中の賛を見ることで
ひとつのバランスを生むことができる。

           kab labo.小関

感覚・感性を伝える|2010年8月 9日

●感覚、感性を伝える。

感覚を伝えるためには、
そのままでなければならない。

感覚を受け取るためには、
そのまま受け取ってみる必要がある。

言葉で形容したり、
例えて伝えることには
限界がある。

むしろ、
思っている以上に
伝わっていない。

何故なら
言葉の意味を
それぞれ知ってしまって
いるからだ。

つまり、その人が言っていることではなく、
いつの間にか
自分が知っていることに転換してしまう。

例えば、
「バランス」という言葉。

私が認識している内容と
他の人が認識している内容は
当然違うものである。

感覚を伝えるには
この壁を越える必要がある。

そのためには
知っていること、蓄積した経験に頼らず、
初めてその言葉の意味を
認識するかのごとく、
新鮮でなければならない。

その時に初めて、
感覚、感性をそのままうけとることができるのだ。

もちろん、伝える側もその人に初めて言葉の意味を
教えるようでなければ感覚をそのまま伝えることができない。

「知っている」という壁(知識、経験)が
感覚、感性を失わせているのだ。

言葉は記号である。
人は記号のやり取りでは成り立っていない。

言葉の内容は常に変化していいものであり、
人が生きている限り、変化していくものである。

それが「生」ではないだろうか。

この内容の変化を受け入れられないと
言葉のやり取り、言った言わないなど
表面的な部分で問題を作ってしまう。
常に言葉のあげあしの取り合いである。

まるで政治家のやり取りのようである。

スポーツで言えば、怪我をしやすくなり、
パフォーマンスが上がらない状態、スランプと言ったとこだろうか。

しかし、感覚や感性は表面的な部分には
決して現れない。常に新しいものだからだ。

言葉の意味を捨て、新しい意味を感じてみてはどうだろうか。
きっと言葉以上のものが伝わり、伝えられるはずである。

感覚や感性は心を豊にしてくれる。

是非試してみて頂きたい。
                       kab labo.小関