小関アスリートバランス研究所

Kab Labo

バランスの力

心と体のバランスを保つ
(ほぼ)日刊語録


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バランスが崩れる時|2009年6月10日

●バランスが崩れる時

身体のバランスが崩れる時、
必ず、自分から目が離れている時である。

感情が噴出したとき。
余計な動きをしてしまっとき。
ケガをするとき。
不安や恐怖を感じているとき。

ついそうなってしまう。
そんな時、環境や他人に目が移っている。

外に出てしまった自分を取り戻すためには、
注意して見張っておく必要がある。

それは強制も強要も必要なく。
そうするために念じる必要もない。
方法や形を模索する必要もない。

ただただ、自分から目を離さず
見ていればいい。

感情が噴出す瞬間。
身体のバランスが崩れる瞬間。

その瞬間を見逃さなければ、
バランスは崩れることはない。

是非その瞬間に立ち会ってみてはいかがだろうか。

                   kab labo.小関

ここ|2009年6月 8日

●「そこ」「あそこ」そして「ここ」

「そこ」や「あそこ」につい夢中になってしまう私たち。
しかし、いつも「ここ」しかないはずである。

「ここ」とは今ということである。

私たちは常に「今、ここ」にしか、存在することができない、はず。

アスリートにはいつも結果を求められる。
他人からも自分からも。

華やかであると同時に
とても窮屈な思いをしている人たちも多いのだ。

しかし、そうも言っていられない。
さらに自分には高い目標や目的を設定して
そこに向かって日々励まなくてはならない。

しかし、どんなに目標、目的が大切であっても
それは、方向性でしかない。

自分という実在まで「あそこ」や「そこ」の世界に
持ち込む必要はあるのだろうか。

つい目移りする「あそこ」や「そこ」を断ち切り続け、
すべての実在、関係がある、「ここ」を大事にしてみる。

遠くまで見える道筋に向かうには、自分の足を
1歩踏み出すことから始まる。

そこに立ち戻れている時、

徐々に不安や恐怖が薄れていき、
結果がついてくるのが分かるはずである。

                     kab labo.小関

オリジナルストライド|2009年6月 5日

●自分のストライドを知る。 陸上選手に指導していると 自分のストライドがどのくらいなのかを 気にする人が多い。

ストライドを気にする前に、
すでに自分のストライドは
決まっていることに気付かなければならない。

どれだけ歩幅を広くしても
自分のストライドでなければ、
余計に体力を消耗し、スピードに乗ることはできない。
特に上半身の安定が崩れる。

走りと走りの間にスキができるのだ。

また歩幅を小さくしてピッチを上げようとしても
自分にあったストライドでなければ、
これも同じことになる。特に不自然な制限が
余分な緊張を作る。

自分に合ったストライドは、
その人の安定感覚によって生み出される。

例えば、
立った状態から
重心を前に倒していくと、
自然と脚が前にでるはずだ(でなければ倒れてしまう)。

次に同じようにして、自分の好きな
歩幅を決めて行なってみる。
(狭いのと広いのと両方行なう)
するととても不自然に感じはしないだろうか。
感覚的には出した足に強く負担が掛かってくる。

もう一度、自然に脚が出るように行なってみる。

違いが分かっただろうか。
自然と自分にあった歩幅が生まれてくる。

生まれてくる。とはリアルタイムであることだ。

大事なは、自分が決めた歩幅ではなく、
自然に表れる歩幅である。

それが自分だけのオリジナルストライドとなる。

ストライド走法とかピッチ走法というのは、
個性に現れたのを第三者が分けたものであり、
本来はどちらもないと言える。

まずは、言葉や形に囚われず、
感覚を大切にして走りを探究してはいかがだろうか。

                    kab labo.小関

相手のバランスを崩す|2009年5月30日

●相手のバランスを崩す。 柔道などの格闘技では、 相手のバランスを崩さなければならないと言うが、 自分のバランスを見ずに相手のバランスを どう崩すというのだろうか。

片脚で立って相手を押すのと
両足で立って相手を押すのとは
当然違いがあるのは実験してみれば
分かると思うが、同じようなことである。

まず、相手のバランスを崩すことより、
自分のバランスはどこでどうなっているのか。

すると、良いバランスとはどんなものなのか。
自ずと観るべき点が絞れてくる。

相撲を見ていると、
勝つ力士は相手のバランスをどうするというより、
自分のバランスを大切に(できている)していることが
見える。

相手を押すために技術や方法を学ぶより、
自分のバランスがどこで崩れやすく、
どのタイミングで崩れているのか気付かなければ、
技術や方法、気迫すらも意味がなく、
押すとうい運動のパフォーマンスは永遠に変わらない。

分かりやすく説明すればこんな感じである。
押している(または引いている)最中、突然相手がいなくなったとしたとき、
自分で立っていられる状態があるか。もしくは相手寄り添ったり、
掴んでいないと立っていることができなければ、
すでに自分のバランスは崩れていると言ってもいいだろう。

またその状態とは心の状態とも密接に関係している。
自分の体のバランスが崩れているのだから、当然心も置き所がなく、
メンタルの不安定さも生まれている。

自分のバランスを保てている上で押す。
自分のバランスを保てている上で引く。
自分のバランスを保てている上で投げる。

当たり前ではあるが、この過程をよく観察していると
自分の穴が見えてくる。
バランスは全ての運動の前提条件として捉えてみると、
新しい感覚を発見できるかもしれない。

是非試してみて頂きたい。
                        kab labo.小関

▼良いバランスとは・・・
東京バランス講習会 受付開始

運動の起源|2009年5月28日

●運動の起源を知る

運動の起源は感覚である。
運動とは、動くことすべて。

立つ、歩く、持つ、考える、歌う、書く…
スポーツ的に言えば、
投げる、打つ、突く、飛ぶ、押す、蹴る…
などである。

これれら動作、運動の前提条件として
感覚がある。

またこれら感覚の欠落が
動作や運動のパフォーマンスと
密接に関わっている。

逆に前提条件である感覚を
良くしていくことで運動や動作の
パフォーマンスは変わっていくのだ。

試しに実験をしてみよう。

1、まず普通に立つ(ニュートラルな感じ)。その感じを掴んでおく。
その状態を大事にして少し重いものを持ってみる。

2、次に立った状態から少し前傾してみる。
すると、バランスを崩さないために身体が緊張する。
その感覚はとても窮屈ではないだろうか。
そのままの感じで同じように荷物を持ってみる。

3、また1をして、違いを感じてみる。


簡単な実験ではあるが、
こういった単純なことも見落としてしまっている
人がとても多い。

これがパフォーマンスの低下だけではなく、
ケガに繋がる大きな条件となってしまう。

すべての運動の条件となる感覚を
どう掴んだらよいだろうか。
どう見つけたらよいだろうか。
どう感じたらよいだろうか。

動作や形は教えてくれるが、
感覚は自分で知っていくしかない。

是非その感覚を掴むキッカケにして頂きたい。

                kab labo.小関

バランス東京講習会 受付開始

分からないから良い?|2009年4月29日

●「分かる」と「分からない」

身体は私(知識)が分からないところの働きが大部分を占めている。
ユングが顕在意識と潜在意識の比率を5%と95%と言ったそうだが、
身体も同じように意識できない働きがほとんどではないだろうか。

ただ立っている行為にしても私たちはどのようにしているか、
実際は把握していない。どんな筋肉を何パーセント使っているか、
膝や足首を何度くらい曲げているのか。
そんなことをいちいち考えて操作していたら動けなくなってしまうし、
やはり分からないことだと感じてもらえるはずである。

kab labo.ではそんな分からないところの働きを大事にしている。
運動のほとんどが意識できないものであれば、その意識できないところに
アプローチした方がはるかに効率的ではないだろうか。

さて、「分かる」とは「分かれる」と書くが、
「分ける」から私たちは知識として理解できることを知っているだろうか。

身体は腕や脚、腰や胸、頭などに「分けられる」が
本来は「分けられる」ものではないし、
「分かれてはいない」ものである。

私たちは理解する(コミュニケートする)ためには、
分けて(名前をつける)ことが必要である。
この文章もそうである。だから伝えることができる。

でも大事なのは本質は分かれていないと
知っていることである。

「分かれていない」ということは、「分からない」ということである。

身体は分からない。

分からないという観点から身体を見ていくと
面白いことが見えてくるし感じることができる。

分からないことが悪いことだと感じる必要もないし、
分からないことをストレスに感じることもない。
分からないから追求や探究もできるし、
分からないから面白いのではないだろうか。

そんな分からない身体を
私たちは自由に使っているのだから不思議なものである。

                          kab labo.小関

肯定するために|2009年4月22日

●肯定的否定

白黒ハッキリさせることが大事という
世の中の風潮があるが、果たしてそうだろうか。

身体を白黒ハッキリさせることはできない。
善悪を白黒ハッキリさせることはできない。
自然を白黒ハッキリさせることはできない。

そう考えるとハッキリさせることのほうが
不自然に思えてくる。

肯定することや否定することも知らず知らず、
私たちはしっか線引きしていないだろうか。

少し余裕を持ってみてみると
白、黒だけではなく、グレーという存在も見えてくる。
そしてこのグレーは新たな色ではなく、
白と黒というのは繋がっていることを教えてくれる。
本来の在るべき姿を見せてくれているように思う。

そんな観点で以下のことを考えてみましょう。


スポーツのパフォーマンスの向上、
表現の追求、
仕事での成果、
なにか研究すること、
真理への探究…

これらの道を歩き続けるには
否定という要素を大切にしなければならない。

肯定についてもこれを白としてしまうと、
抵抗が生じる。否定を否定する肯定である。
肯定なのに否定する??おかしくないだろうか。

否定といっても抵抗や摩擦があっては
ただの拒否であり、否定的否定となってしまう。

抵抗や摩擦のない否定。
つまり肯定的否定である。

今という新しい現実は、一瞬一瞬起こり続ける。
川の流れは同じように見えるが、
ひとつとして同じ水、同じ流れではない。

私たちの身体も瞬間瞬間変化し続けており(老化や成長)、
ひとつとして同じ身体とめぐり合うことはない。

その中で記憶や経験だけが増え、
私たちは大人になるつれ経験や体験を大事し、崇拝し、宝にする。
しかし、それを大事にするあまり、
今という新鮮さを失わせてしまうことがある。

それが既成概念であり、その既成概念を通して
現実を見てしまう。つまり、色眼鏡をかけてしまうのだ。

次の瞬間、それ変化しているかもしれない。
次の瞬間、その人は成長したかもしれない。
次の瞬間、新しい何かが生まれているかもしれない。

新鮮な今を感じたり、見たりするためには、
その色眼鏡(既成概念)を外すことが必要である。

そのために否定してみる必要があるのだ。

新しい今を感じるために。
新鮮な今を知るために。

私たちは肯定するために、否定し続けなければ
ならないかもしれない。

そしたら、きっと無駄な争いや闘争も
なくなるのではないかと思う。自分の中の摩擦や抵抗がなければ、
それは人との付き合いも国との付き合いも変わってはこないだろうか。

全ての条件、要素、関係がある「今」と出会うためには、
色眼鏡や既成概念を否定していく必要がある。
それが肯定することではないだろうか。

身体についても問題や課題がある人は、何かに頼るではなく、
自分のやっていることをまず否定しなくてはならない。

しかし、それは否定的否定ではなく、肯定的否定である。

否定することで肯定するものを感じることができる。
そんなことをバランスというキーワードを通してお伝えできれば幸いである。

                                kab labo.小関

学び|2009年4月 7日

●学び 学びは常に 自己の外にある。

外のあるものは
不思議に感じるかもしれない。
矛盾を感じるかもしれない。
理解しがたいものかもしれない。
意味が分からないかもしれない。

それが自己の内である。

でも、
それらを拒絶、抵抗せず、
自分の中のものと辻褄を合わせもせず、
すぐに答えを出さずに眺めてみる。

まるで海や山を眺めるように…

それが出来ているときのみ、
内と外との境界線は消えていく。

その瞬間、私たちは本当に新しいことを
学ぶことができるのだ。

                 kab labo.小関

kab labo.バランス講習会in東京 受付中

自分|2009年4月 2日

●主体と調和

自分で行なうこと。
自分でやってみること。
自分で感じてみること。
自分で。。。

自立や自己の確立が
大切といわれている。
確かに大切な要素であり
欠かせないものである。

しかし、表面的なことではなく、
もっとその意味を理解すると
捉え方も大きく変わってくる。

自分というのは、
(自)自己という意味と
(分)全体の一部分であるという意味がある。

確か、安岡正篤氏が著書の中で述べていた。

主体的である部分と
協調、調和すること。
これらが1つであることを「自分」という。

本当の意味は分からないが、
こう捉えるととても面白い。

これは、自然をみても
同じである。

野に咲く一輪の花がある。

周りに囚われず、
自分の遺伝子の指令に従い、
ただただ自分のことをしている。
恐ろしいほどの主体性である。

その花に集まる虫や動物たち、
生きるために必要な要素や
栄養を運んでくれる土や空気や太陽。
恐ろしいほどの協調性、調和力がある。

この二つの要素が
生命の本質ではないだろうか。

人も自然の一部であり、動物であるならば、
その両方を兼ね備えていることが本然では
ないだろうか。

自然たちは戦争を起こさない。
自然たちは矛盾もない。
自然たちは悩みもない。

これらは、正誤善悪ではない。
偏りと抵抗であり、それがこれらの結果を
生むのではないだろうか。

自然は常に主体と調和を持ち合わせている。

主体が行き過ぎれば、調和を壊し。
調和が行き過ぎれば、主体を失う。

私たちの行動や言動に
これらの要素が同時存在しているだろうか。

自分の身体に耳を傾けて見ると、
教えてくれるはずである。

是非、そんなことをバランスを通じて学んで
頂ければ幸いである。

                 kab labo.小関

4月kab labo.バランス講習会in東京 受付開始

短所と長所の関係|2009年3月23日


●短所と長所の関係

人はそれぞれ、
長所、短所がる。
才能があるところもある。
欠点や問題点もある。

でもそれは自分の見方や
人の見方で分けられているだけで
自分という存在の各部分に
名前を付けているだけなのだ。
頭、脚、腕、胴体…と同じように。

本来分けることができないのだ。

その長所があるから
その短所がある。

その欠点や問題点があるから
その才能があるのだ。

都合良くその部分だけとは
いかないのである。

欠点や問題点を修正したのであれば、
全体のバランスに目を向ける必要がある。

腰痛、肩こり、膝痛など

補強したり、薬を使えば、
軽減するかもしれない。
しかしそれは一時的、表面的なことである。

全体のバランスに目を向けるだけで
痛みは軽減したり、増したりする。

力やスピードを出すために
部分的強化や訓練をするが、
それは、全体のバランスを壊しかねない。

全体のバランスに目を向けるだけで
力やスピードは大きく変化する。

チームや組織においても同じことが言える。

問題は問題自体が問題なのではない。
全体のバランスがそういう問題を生んでいるだけである。

それだけで、問題との向き合い方が変わってくるし、
それが可愛くさえ思えてくる。

そう思えたとき、短所や長所という視点も消えているのだろう。

                     kab labo.小関