小関アスリートバランス研究所

Kab Labo

バランスの力

心と体のバランスを保つ
(ほぼ)日刊語録


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勝負脳|2008年8月21日

【勝負脳】

スポーツの祭典、オリンピックでは勝負脳という言葉が
注目されている。kab labo.風に解説してみよう。

人は「行為・行動」する前に、それを「決断」している。
そしてその前には、「思い」が生じている。

我々はこの一連の流れを
個々の物として理解する傾向がある。

身体は、もともと全体が一つのものであり、
バラバラに組み合わせて使うものではない。

つねに全体観という視点を忘れてはならない。

行為を変えることで、人格や性格も変わることもあるが、
変わらないことも多い。

何故だろうか?

それは、前述したプロセスを一つとして捉えていないからである。

思い → 決断 → 行為

この3つは一つの行為であり、一つのプロセスである。
だから思うことは、即行為となる。

思っても決断できなければ、行為までには及ばない。
一般的にはこれは、行為は行なわれなかったことになるが、
実際には思った時点でそれが行為なのである。

厳密に言えば、実際の行動がなくても身体には、
わずかな反応として表れているのだ。
つまり行為していることになる。

例えば、やりたくないことでもやらざる得ないことがある。
思いは抵抗しているが、行動・行為をしている。
これは、心と体との分離が始まっていることになる。

まるで、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるように。

だから身体的には、疲労度合いが大きくなる。
また、能力(運動)発揮にブレーキが掛かることになる。
100%の能力が70%や50%となるようなものである。

逆に、やりたいけど、行為できないことも同じストレスとなる。

もちろん、社会的動物である限り、必要な場合もあるが、
常にこの状態がある人は、いつかオーバーヒートしてしまう。

ただ、運動に関しては大きな弱点となる。

「思い」だけ変えて、決断できず、行為が伴わない。
「行為」だけ変えたが、思いが伴わない。

大事なのは、思いと行為を一致させることである。
まずは、自分の思いに注目して、行為・行動との
方向性に目を向けてみてはいかがだろうか。

                      kab labo.小関

感覚を高める|2008年8月 5日

●感覚を高めることの意味

よく感覚を高めるには?
という質問を受けます。

木登りをする?
川遊びをする?
竹馬に乗る?

実はこういった行為が
感覚力を高めるのでは
ありません(確かに学びやすいが)。

大切なのはどれだけ
主体的に違いを感じることが
できるかなのです。

遊びはこの主体性という感覚を
掴む上でとても大切です。

バランスボードもそうですが、
主体性を持たない限り
バランスを保つことはできません。

自分が乗ろうとしないかぎり
絶対にバランスは保てないのです。

自分が選手であり、コーチでなくては
なりません。

トップアスリートたちはこの感覚を
持ち合わせています。

イチロー選手や谷亮子選手をみても
分かると思います。

大切なのは主体性を持つことです。
つまり興味を持ち続けること言っても
いいかもしれません。

木登りや、竹馬のような遊びは
型にはまったものはなく、
自分の感覚が優先されます。

感覚が優先されれば、
人は、辛さより、楽さや自由さに
注目することができるのです。

するとそこには、
もっと楽になるには?
もっと自由に動くには?
早く動けるには?

という感覚の追求が始まります。

この感覚の追求が感覚を深めることになります。

高めるというと、付けたし、加えるようなイメージに
なりますが、感覚は付けたすことはできません。

感覚は深めるものなのです。

楽しさがなくなった人は、
感覚の探究に足踏みをしている状態と言えます。
感覚を型にしてはなりません。
感覚は常に変化しているのです。

その変化に目を向けたとき型は取り外されていきます。
そして次の一歩を踏み出すことができるのです。

※感覚を深めるためのキッカケをkab labo.では提供しています。
よろしければkab labo.講習会に!

自信を得るために|2008年7月29日

【 自 信 】

自信とは、
自らを信ずると書く。

心で信じることを
自信というのではない。

自らとは、
心身すべてということである。

心身すべてを
信じられている時、
心と身体との差異がなくなくなり、
自信という感覚すら消えている。

私たちが自信ということを
自覚できるのは、
自信がない時だけである。

だから、
自信がないことを自覚することは大切だが、
自信がないところに意識をおく必要はない。

問題はどこに置く?|2008年4月 1日

【問題点やポイントから離れてみる】

人は「前」と思うだけで重心が変化する。

また、両方の手のひらを合わせ、
人指し指の腹を1?程度離す。
そこで「くっつけ」と思ってみる。
すると、あえてそうしなくても
人差し指はくっついてしまう。

そのぐらい人は繊細であり、意識しないところでも
運動を引き起こしている。

ボディバランスについて、
アドバイスや指導をさせて頂いて感じるのは、
往々にして、やっていること(運動)を
やりすぎることである。

つまり、二重の運動になっているのだ。

バランスをとるのに、バランスをとりすぎる。
力を出したいとき、力を入れすぎる。
スピードを出したいとき、出しすぎるのだ。

また、問題を問題としてしまい、
バランスを崩してしまう人も多い。

それらが「力み」となり、全体の運動に上手く
結びつかない。

問題点やポイントなど
良いにしろ、悪いにしろ注目しすぎると、
そこを中心にして全身が働いてしまう。

本来の目的から外れて、目的を達成させるための
ほんのキッカケだった問題やポイントが、いつの間に
か目的になってしまうのだ。

そこにはまったく違う目的の運動が表れていることに
気付かなくてはならない。
(形状は殆ど変わらないが。。。)

問題やポイントとは一番目の前に置いておきたいものだが、
それはもっと遠いところに置いておくことが大切である。

問題やポイントから近すぎれば、運動は小さくなり、
遠く離れるほど、運動は常に大きな視点で捉えることできる。


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▼Body Balance Board

外的バランスと内的バランス|2008年3月14日

●外的バランスと内的バランス

以前、インナーバランスとアウターバランスという タイトルでブログで紹介したことがあったが、 今回は少し違った視点でバランスを説明していき たいと思う。

バランスには外的バランスと内的バランスがある。
と講習会などでは説明している。


一般的に人は、外的バランスを基準としている。
何故ならそれが分かりやすいからである。

見た目、形状からバランスの良し悪しを判断する。
そこから基準ができてくるのだ。

しかし、この外的バランスを基準してしまうと
ある問題が発生する。

それは、運動の可能性を形で制限してしまうこ
とである。

外的バランスが崩れないように外的運動で規制
するのだ。

それは運動の一番大切な要素となる全体性を
失うことである。


●例えば、
・普通に肩幅スタンスで立ってみる。

・次に少しずつ前傾してみる。
 すると、倒れまいとして形状を固定化する。

・さらに前傾すると、ますます形状の固定化が
 進行する。

・さて、そこから自由に動けるだろうか?

これが外的バランスの結末である。
まず固定化をすることで運動の可能性がなくなってしまう。
さらに倒れまいとする働きが
分部の負担を促進する(腰、膝、足首、大きい筋肉…etc)。

この繰り返しが、ケガの原因となるのだ。

そして、普通はこの結果に対して処理しようとする。
だから、分部負担への強化(部分的対策)をしてしまう。
これではまた、ケガをするように導いてしまいかねない。


ここで大切なのは、私が兼ねてからお伝えしている、
内的バランスである。この感覚を知っただけでも
ケガの軽減やパフォーマンスの変化には多大な影響を
与える。

●内的バランスとは何か?

外的バランスに表れないバランスである。

実は外的バランスが崩れる前に
内的バランスがすでに崩れていることを
ほとんどの人は知らない(身体では皆知っているが…)。

内的バランスとは何を判断基準とするかと
言うと、それは感覚である。

内的バランスが崩れるから外的バランスにも
表れるのだ。

つまり外的バランスはすでに本質的なバランスが
崩れているということである。

もちろん、外的バランスと内的バランスは
分けることができないものである。

しかし、この内的バランスを知ることで
外的バランス(結果)に囚われず、
能力を発揮することができ
ケガなどの障害も格段に減少していくのだ。

では内的バランスの観念があるとどのように
対応できるきるだろうか?

●実は、例)の前傾を始めてすぐに
身体が倒れまいと反応を起こすところに
注目しなくてはならない。

これは、見た目や形状ではハッキリ
認識できないが、感覚では認識できる
変化である。

過剰な筋緊張が信号である。


その時に内的バランスの崩れる瞬間がある。

そこで運動を切り替えることができるかで
運動の質、つまり本質的なバランスを維持できるか
どうかに関わってくるのだ。

バランスとは形状を維持することではなく、
運動状態を維持することである。

それには自分の主体的な感覚がとても
大切になってくる。

ボディバランスボードに乗るとき、
「バランスを保つことを目的としないで下さい」
と言うのはこのためである。

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▼Body Balance Board

身体の調和|2008年2月 6日

●運動の調和を感じる 子供にアドバイスする時は 理屈から入らない。 大人にアドバイスする時は 理屈から入る。

これは、
運動の機能を
どれだけ既成概念で
押さえらえているかが
良く分かる。

子供はまだ理屈で運動を
考えない。
だからある程度方向性だけ
伝えると上手く体を使うことが
できる。

大人はそうはいかない。
(もちろん素直な人もいるが)
まず、考え方や捉え方を
広げてもらう。
同時に体で体感してもらう。
すると今までの既成概念が
変化する。
その時にはその人の能力が
発揮され始める。

でもそれをまた理屈で
考える人はまた悩んでしまう。
そこに答えはないのに…
でもそれを繰り返すことで
徐々にバランスが保たれてくる。

人によっては、
ケガをしていると思っていたところが
講習中に軽減し、機能的な変化を
することもある。

それは、特別なことではなく、
部分的視点から全体的視点に
変化したとき起こることで、
思うほどケガもひどくなかった
というだけである。

もちろん、本人はビックリするが
本人の認識が変化した結果である。
ある意味パフォーマンスの
変化と言えるであろう。

kab labo.でお伝えしているのは
どれだけ過不足ない状態を
作るかである。

それによって運動能力を発揮する
状態が大きく変わってくるからだ。

それには全体性をよく体感するしかない。

様々な人を見てきて
感じるのは

パフォーマンスと根本運動を
分けてしまっていることでだ。

パフォーマンス(結果や問題、ケガ)とは
結果的に表れる分部で
結果と直接接する部分でもあるため
つい一番時間を割いてしまう。

そのお陰でケガやスランプで
悩んでいる人が本当に多い。

大事なのは一部を強化することではなく、
全体の調和である。
本来運動とはこの働きから離れることは
できないのだが、
こういう過不足が調和という能力を
壊してしまう。

人は一部を取り出して見て考えることが
できてしまう。
しかし、全体を見て考えることはできない。
全体は感じてみるしかない。

問題は一部を取り出してしまうこと自体に
あるのではなく、
それを取り出して
そのままにしてしまうことである。

今、この調和させる分部が欠落している。
この調和ができれば
ケガやスランプは自然と軽減されていく、
また同時にパフォーマンスも結果的に
発揮されていくのだ。

本来調和しているものを
壊しているのは自分自身である。

子供と大人への伝え方の違いは
この調和力の違いと言える。

バラバラに捉えるのではなく、
常に全体の調和を感じてみることが
問題への解決の糸口になると思う。

人同士の対話にしても
この調和が崩れたときに対話は
終了し、交渉や意見だけの
ぶつかり合いにしかならない。

対話とは常に創造されるものであり、
互いに作り上げるものである。
体も同じではないだろうか?
無理に付け足し、強化・強制するものではなく、
調和していくことが大事である。
そしてその調和が能力を発揮する
普遍的な要素である。

実践しての感想をkab labo.小関までお伝えください。
こちらまで

調和の感覚を掴もう⇒ ボディバランスボード

              

走法の原理|2008年1月21日

●運動自体への注目 最近、 陸上関係者や選手を見る機会がある。 とてもシンプルな競技だけに、 一つの要素を掘り下げることが、 大事である。

あまり意味のない意味づけによって
能力が発揮できていない人が以外に多い。
(これは陸上だけではないが)

とくにケガをしてしまう人の動きを
見ると一目瞭然、その不自然さに
目を奪われてしまう。

これは根本的に運動の概念を捉え
なおすことが必要である。

例えば、膝を怪我する人は
膝に負担をかける走りをしているし、
肉離れを起こす人は
そのような動きをしているのだ。

問題は
その動き自体に疑問を持つのではなく、
気力や筋力、柔軟性といった
ケガをした本人の問題として捉え
ていることが多い。

もちろん、本人が体を操作しているの
だから本人せいと言えば間違いない
のだが、もっと全体的に運動を捉えな
い限りこの問題は解決することはない。

だから、最近は指導者やトレーナー、
コーチといった人たちを対象に
「バランス」について理解を深めて
もらいたいと考えている。

例えば、
片脚立ちをするにしても軸足に
頼る立ち方と、
体全体の関係性に注目する立ち
方では雲泥の差がある。

片脚を上げることに対して
上げた足、軸足これら以外の
体全体が片脚立ちという運動に
参加すること。
それを一つの部位や機能に頼るのは
効率が悪いし、本来人間の運動は
局部的な運動ではないのだ。

試しに肩から先の腕だけ上下に
動かしてみる。
するとその窮屈さを感じるはずである。
次に普通に上下させてみる。

人間の運動は全体的なハタラキが
あるのだ。

また、普通に歩いているとき
どの足が軸足になって
その時どの角度で腕が上がって
など分からないはずである。
もっと細かく分析すればするほど
さらに理解できない。
歩くという運動に全体が参加して
いるからよどみなく運動状態が表
れるのだ。

それはどうやったか分からない。
でも体は知っているのだ。

ストライド走法、ピッチ走法と
名前は付けられているが

それは、本来技術的な
ものではなく
自然に表れた表現なのだ。

これは歩くと走るを比べてみると
分かりやすい。

歩いているときの歩幅と
走っているときの歩幅は
違うはずである。

これがストライド走法と
ピッチ走法の基本原理である。

体全体の変化に伴って
表れる歩幅が結果的に
そう名づけられたのだ。

だから、名づけられた後の
形を表現するのではなく、
その前の状態を知る必要がある。

形は結果的に表れるものだ。
手を伸ばしたその形は
いつ表れるのか?

名前(名称)や理論は
常に後付されるものである。

全体のハタラキ|2008年1月 5日

●自然のハタラキ 自然のハタラキは とても人知の及ぶところではない。 自然の力は偉大で 我々がどうすることもできないものである。

と、誰しもが知っている。

しかし我々は、
一番身近な自然に
そうした感覚をもっているだろうか?

一番身近な自然?

山?
海?
川?
犬?
植物?
それとも
空気?

いや、

もっと身近な、
自分自身(私・貴方)である。

一番身近な
自然に
もっと
信頼を寄せてみたいとは
思わないだろうか?

講習会で
お伝えしたいことの
一つに
「自分への可能性」がある。
それは、「自然のハタラキ」
と言い換えられる。

講習会に参加してくれた人は
気持ちが楽になると
言ってくれる人が多い。

それは、
自分自身に可能性を
感じたから、自然のハタラキの
大きさを感じたからである。

それは、いつの間にか
自分への信頼に繋がっている。

信頼という言葉は
先にあるのでなく、
結果的にあるものだ。

未知の自然を
もっと自分に
感じる。

それを感じた瞬間
その未知の可能性は
目の前にあるということを
垣間見ることが出来る。

それは、
イメージ的なものではない。
哲学的なものでもない。
スピリチュアル的なものでもない。

ありのままの自然を
何の価値観も通さず、
ただ見て、ただ感じることである。
そしてそれを分析もせず
理解もしない。
ただ、波を見ているように。
そして、ただ、風を感じるように。
ありのままを受け入れる。

その時、
運動の本来の
ハタラキを知ることができる。

運動とは分けられないものだと。

私たちは
分けることで理解することが出来る。
何故なら、
理解という能力も全体の一部だからだ。
一部は一部を知ることができても
一部が全体を知ることはできない。

だから運動は
一部の強化が全体の強化に繋がるとは
限らない。

料理は全体が大切である。
味、風味、食感、温度、食べごろ、、、
すべてが整ったとき
素晴らしい料理として成り立つ。
もちろん、それぞれの具材も大切であるが、
それは全体のバランスがあってのことだ。

運動も全体のハタラキから
眼を離してはならない。

そのためには
ただ見て、ただ感じるしかない。
何の価値観も通さずに。


1月のkab labo.講習会⇒ 東京講習会詳細
新しい感覚をお伝えできれば幸いです。

軸を作るとバランスを崩す|2007年12月 3日

●軸はバランスを崩す!? バランスと言う言葉と 必ず一緒に出てくる言葉が 軸運動である。

しかし、
この軸が強調されればされるほど
バランスが崩れやすくなる。

軸とは構造上、
確かにあるように見えるし、
実際にその機能も存在する。

問題なのは、
その軸を故意に作り出したとき、
本物の働きを失うことだ。

つまり、
立つ運動を意識しなくてもできるが、
立つ運動を自分の意識で作り上げると
物凄く不自然になる。

同じように、意識して軸運動を作ると、
それは不自然にしかならない。
意識しなくても働いている機能に任せ
られることが大事なのだ。

軸というものを
頭で理解しようとする人と
身体で感じることができる人の
解釈の違いが
大きな差となって現れる。

歩いているとき、
軸運動の機能は働いて
いないだろうか?

しっかり働いている。

ただ、私たちの思う
軸運動とは違うことも
よく分かるはずである。

私たちの思う軸運動を
作ってしまうと、
動作の二次元化
ベクトルの単純化が
起こる。
(本来人間は三次元である)

すると、
身体に対する局部的負担が
増大するだけではなく(ケガの発生)、
予備動作が起こり相手への
予測に繋がる。
同時に力の低下につながり
パフォーマンスの発揮に
大きく影響する。

以前、バレエの公演を観たとき、
この違いがハッキリ見ることができた。

ソリストクラスになると
この軸運動に頼っていないことが
分かる。優雅で立体感がありとても
綺麗なダンスをする。

逆に、軸運動に頼っている人は
平面的で一生懸命感が伝わってきてしまい、
優雅さを表現できていないことが
分かってしまう。

これではケガをするだろうな。と
一目瞭然だった。
これは他の競技も同じである。

ボディバランスボードに
上手く乗れるときは
この軸感覚がないことが
感じることができる。

逆に軸感覚に頼ってしまった時
バランスが保てないのだ。

この軸感覚をどう捉えるかで
大きな差になることは
間違いない。


【今日の実践】

・片脚立ちをやってみる。
1、眼を瞑って片脚立ちを
行なう。ももが水平になるくらい。
軸脚を感じてやってみる。

2、その感覚を確かめる。

3、次に軸脚を作らず、同じように
片脚立ちを行なう。
(身体全体が片脚立ちという運動に参加する。
ちょうど歩くような感じで)

4、違いはないか感じてみる。

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本物の軸感覚とは!⇒ ボディバランスボード

メンタルバランス 2|2007年11月30日

●感情と体のバランス 【感情の偏り】

心とは感情の働きに大きく影響する。
感情は揺れやすくとても敏感な機能である。

感情の波が大きければ、
体に対しても思ってもいないほど大きな
影響をもたらすのだ。

例えば、
・普通の状態で立っている相手を軽く押してみます。
(2人ペアで実験)
・感覚をお互いに感じてもらいます。
・次に感情の怒りを作って(イメージして)、できたら同じよう
にその人を押します。

するとどうでしょうか?
先ほどと全く違う感じを味わうことが
できる。

最初、何もしないときは安定感があるが、
感情を作ると安定感がなくなることが分かる。

これだけでも感情という機能は
体に大きな影響を与えることが実感できる。

実は、
この過多の感情は過剰な緊張状態を作り出すのだ。
その緊張状態は体の全体の働きに「制御」という形で現れてくる。

これだけ感情が体に影響するのだ。
前のコラムにも書いたが、
50:50の割合には大きく問題がある。

あえて割合を出すならば1:99である。

つまり全体の1%と考える。
だから、感情も機能の一部として捉えられる。

すると、
色々な関係性が明らかになり
見えなかったものが見えてきて、
感じなかったものが感じるようになってくる。

【感情は防衛本能】

感情とは思考に大きく関係している。
思考の混乱は感情の波として現れる。

思考とは記憶・経験や予測の総合力である。
だから、
この枠から外のものに対して防衛本能が働くのだ。

経験や予測を外された時、
人は笑い、泣き、悲しみ、そして怒る。
(それは個人によって様々である)

つまり、
感情はその人自身の問題であると言える。

ただ、何度も言うが
この感情が悪いと言っているのではない。

運動のパフォーマンスから見たとき、
感情の偏りが大きく影響していることを
知っていることが大切である。

人は、あえて意識しなくても間違いなく、
思考が働き、感情が働く。

それが適当な役割である。
それ以上、役割を増やさなくてもいい。
だからこそ、
逆に感情が豊かに(バランス良く)表現できるのだ。

メンタル強化とは、何かを特化させることではない。
全体のバランスをとることで総合力を発揮させること
である。

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適材適所の感覚を掴もう⇒ ボディバランスボード